6000年前
縄文人が海を渡り
南米大陸までたどりついた...!?
という説があります。
” そんな昔に、無理でしょう! ”
” どうやって?? ”
そう思われるかもしれません。
ですが縄文時代、日本からエクアドルまで黒潮に乗り、土器の模様が伝播していた痕跡が
見つかっていて、海を利用して南の島々と交易が行われていました。
また、彼等は黒潮などの海流について、経験的によく知っていたようです。
ときには遠洋にまで鯨を取りに行っていました。
縄文人は、近海を自由に航海していたようです。
縄文人が近海を航海するのであれば、もっと遠洋への航海にでることは、ありえると思います。
たとえそれが、最初は漂流であったとしても。
【縄文人の南米渡来説】
この説については複数の仮説がありますが、プロジェクトでは以下の2つを取り上げています。
一つ目の「土器の類似性」はエストラダ・エバンス・メガーズ説、二つ目の「魏志倭人伝の記述」
による説は古田武彦氏の説によるものです。
■土器の類似性による縄文人渡来説
エクアドル・日本の両国で発掘された土器について、驚くほどの類似性が認められ、
縄文人により土器の装飾技術が南米に伝播したのではないか、という説です。
50年前、アマチュア考古学者である故エストラダ氏がエクアドルから出土する土器と
日本の縄文時代の土器について驚くほどの類似性を見つけ、アメリカ・スミソニアン研究所の
メガーズ博士に相談したのがきっかけでした。
縄文土器は、ある一定の技術の醸成過程を経て形状や装飾が完成されたものですが、
エクアドルの土器はいきなり高度な技術の、縄文土器とそっくりな装飾土器が発掘されました。
「誰かがその地((南米)へ行き、土器の技術を伝えたのではないか」
そう考えられています。
土器の技術を伝えた「誰か」とは、いったい誰だったんでしょうか。
■三国志・魏志倭人伝の歴史書による縄文人渡来説
古田武彦氏は三国志・魏志倭人伝の一字一字を深く研究し、今まで軽視されていた
次の一行、
「(裸国、黒歯国)東南、航行一年にして至るべし」
という陳寿の言葉をとらえ、
「裸国・黒歯国」 = エクアドル・ペルー
「航行一年」 = 二倍年暦によると半年
”倭人は、航海期間半年とする南米航海(交流)をしていた”
という結果を導き出しました。
”裸国・黒歯国”については、昔エクアドルのシャーマンがコカの葉と灰を口に含み祈祷することで
歯が黒くなっていた、という話に基づくものです。
”航行一年”この一年は、古田氏の「二倍年暦」によると、半年とされるようです。
その根拠としては「祝詞(神を称える文章)」にある年間行事が一年の中で2回繰り返されていて、
半年を一年としている、という考えによるものです。
古田氏は、この考えに至るにあたり、
「ただ、三国志の著者、陳寿のさし示すところに従う」
としています。
【参考:「海の古代史」、「邪馬台国はなかった」古田武彦著】
縄文人渡来説に対する説については、他にも複数ありますが、全てにおいて仮説の妨げ
となっているものは実際に縄文人が太平洋を航海できたのかという
反論によるものです。
古く日本では縄文時代に黒曜石やヒスイ等を原産地から地方や他国へ運ばれた痕跡が
発見されており、縄文人が近海を航海していたようです。
また江戸時代にはよく知られているジョン・万次郎やジョセフ・彦がいます。
彼らは黒潮に流され太平洋を漂流し、アメリカ船によって救出されています。
日本からアメリカ大陸には黒潮があります。
そして、エクアドルから日本には南北赤道海流等があります。
これらは縄文人南米渡来説の可能性として挙げられるのではないか、と考えています。
今もなお、上記2つの仮説について、調査や研究が続けられています。
古代の筏で太平洋を横断
私達は筏を建造し、エクアドルから太平洋を横断し日本までの航海を計画しています。
2つの説では語られていない、日本から南米に至るまでのプロセスについて、
実際に航海をし、実証します。
航海は冒険としてではなく、2つの説に更なる新しい”発見”があると信じ、その探検として
行います。
計画は、
第一段階 古代の筏を復刻し、その操作性・設計性等について調査
第二段階 筏を再度建造し、エクアドルーメキシコ間の往復航海
第三段階 筏を再々度建造し、エクアドルー日本間の航海
という3段階で予定しています。
まずは、現在グアヤキル湾での筏の操作性と耐久性を確認するための試験航海をします。
この航海に参加していただける方を、募集しています。
詳しくはこちら↓から確認してください。
http://boyaproject.blog.shinobi.jp/Entry/2/